モデル撮影 – “作為の中から無作為を抽出する”

人を撮りたいと思いながら、あまり人を撮っていない。
昨今は特に肖像権に関するトラブルなどを考えるとストリートフォトなども気楽に撮れないようになってきている気がする。もっとも撮るには撮っているけれど、特定の人の顔が明瞭に出ている写真については公開を控えるようにはしている。出すにしても、相当先の”熟成した頃”を見計らうしかない。
モデル撮影という手もあるだろうけれど、個人的にモデル撮影は苦手だ。関係性の構築が私にはうまくできないと思うし、それ以前にどちらかといえば”自然な姿”を撮りたいので、モデルさんにモデルとして来てもらってモデルをしてもらいそれを撮影するというのは、あまり意に沿わないこともある。

私が求めているのは、もっと人間の素がむき出しになっているような姿で、おそらくは被写体が公開を拒むほどの状況を撮ってこそ満足いくものなんだと思っている。これを演出写真で実践するには、写真以外の相当の技量が求められそうである。たぶん私には無理だろう。
数年前、それでも一度だけモデル撮影をしたことがある。
神代植物公園で素人モデルの女性と会い、公園内を舞台にしながら撮影をした。モデルの募集はmixiのモデル募集コミュニティで募集した際にコンタクトしてきた人だ。確か交通費と食事代程度で良いという交渉の結果お願いしたと思う。なので、掛かった経費も自分の交通費を入れても5,000円程度だ。条件として撮影した写真はすべてデジタルデータで送るということだったので、後日CDに焼いて郵送した。

撮影は朝から初めて昼過ぎぐらいまでやっていたと思う。素人モデルとはいえ、一応モデルとしての役割を果たしてくれた。衣装も多く準備してくれたし、モデルらしいポージングもかなり勉強して、またほかでの経験も生かしてアクティブに動いてくれていた。こちらが特に指示しなくても自発的にポーズを取ってくれた。床屋に行って「適当な感じでカットしてください」と言えば、ごく一般的でおかしくないカットをしてくれるようなお気楽注文を受けてくれるといった感じであった。私のようなコミュ力のない人間からすると、本当にありがたいモデルさんであった。

ただ。私にとっては、あからさまなモデルポーズを取られたり、普段にない恰好をされてみたり、およそ普段着用しない衣装を纏ったりした写真というのは、正直使い物にならなかった。いまでもときどき見返すことがあるが、ほぼ使い物にならないのだ。
しかし、その中で数枚はキラリとするものがあって、その写真は今でも数年前でも使えるものとして大雪にさせて頂いている。
以前参加したグループ展「解毒 ~DETOX~」で使わせて頂いたうちの1枚が下の写真である。

空代さん

彼女がポーズを取ってくれている間は当然シャッターを切っているけれど、彼女がポーズを切り替える間や一旦気を緩めたりしている時も撮り続けていた。上の写真はポーズしているうちの一枚ではあるけれど、後半に入ってだいぶポーズにも力が緩んできたあたりの頃だと思う。実は今度参加させて頂く台湾・台北でのグループ展「人×心÷日本」にも一枚別の写真を使わせていただこうと思っている(まだ予定だけれど)。その写真もやはり後半以降の写真で、彼女も私も会話らしきものをせず黙々と己の仕事をこなしていたという状況の中で生まれた、一種の疲弊から生まれた作品であると言えるのではないか。
そうした意味で、ようやく最近になってモデル撮影のメリットというものを見つけることができたのかもしれない。
私がようやく確認できた、モデル撮影の本質はつまり次の2点である。

(1)作為の中から作為を抽出する作業

(2)作為の中から無作為を抽出する作業

「作為の中から作為を抽出する作業」は、ずばりモデル撮影の本来的な姿である。こちらを求める人が当然圧倒的多数だし、ポートレイト撮影といえば当たり前ではあるが(1)の作業に他ならない。ときどき植物園や公園などでモデル撮影会を見かけることがあるが、どのカメラマンもモデルさんがポーズを取っているときに必ずシャッターを切っているし、それ以外の時にはファインダーを覗いている人はほとんどいない。

私の場合、(1)を否定したいのだ。
なので、ポートレイト撮影という本来のモデル撮影は私にはできない。これは私の性格によるところが大きい。
私は”くさいこと”が苦手なのだ。
物事の大半は作られたものであるという事実から目を背けたい、というと大仰すぎるかもしれないけれど(いや大仰すぎるわな)、不自然な状態を写真で切り抜くのが許せないのかもしれない。それはストリートフォトに魅了されているからということも一つにはあると思う。
でもだからといってリアリズム写真論を信奉しているわけでもない。まったく中途半端なポリシーの持ち主なのだと自分でも思っている(笑)。そうはいってもやっぱり最大の理由は、うまい表現ではないけれど、”くさいこと”がキライ、に尽きる。
ばかばかしいのは許せる。けれど、臭いのはダメなのだ。

ちょっと意味が変わってくるかもしれないが、誤解を恐れずあえて言うなら、「それっぽい写真」を撮ることがキライ、に似ている気がする。
モノクロームで撮ればアーティスティックな写真ぽくなる、トイカメラで荒っぽく切り取ればそれっぽい写真が撮れる、構図のセオリーを破ってみるとそれっぽい写真に仕上がる…などなど。
撮影者本人がそれで満足するならそれで構わないので、他者の写真について特段何かコメントを添えることはないのだけれど、自分自身がそういうものをしていることもあったりするし、そこから脱却したいというジレンマもあるし、だから「それっぽい写真」がキライなのだ。
ポートレイト撮影すべてが”くさいこと”とは思わないけれど、私の中では作られ過ぎた演出写真という位置づけになっていて、この感覚はもはや私にとって変革しがたい。

話がいつも脱線してしまうが(笑)、そうはいってもモデル撮影の本質2点に気が付き、その2点目は私にとっては鉱脈か金山か油田かといったところだ。だからモデル撮影という線を今後は模索してみたいと思っている。
もちろんその中で通常のポートレイト撮影もするだろうし、それを”くさいこと”と一蹴してしまうことはできない。
だって、無作為を抽出する作業は、作為を抽出する作業の過程で偶発的に得られるものだろうから。
でもだからこそ、写真家自身にとって価値のある一枚を得ることができるのではないだろうか。多くの場合、数ある中から偶発的に得られた写真が世の中に刺激的にデビューしているのだと私は確信している人である。

ただし、この「作為の中から無作為を抽出する」場合、たった1つだけ問題があると私は思っている。
被写体たるモデルさん自身が切り取って欲しいと思っているシーンとは裏腹で、モデルさんの期待を裏切っているのではないかという点だ。
この点はもはや、モデルさんに了解いただいた上で撮影に臨むしかないであろう。

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